横浜FM退団の真相…齋藤学を追い込んだ怪我と「強化部からの評価外」通告

目次
1「お前は評価されていない」…移籍を決定づけた強化部との溝
2「プロの決断」の背景にあった怪我への恐怖と成長への渇望
3「行かせたくなかった」川崎の配慮と、それでも会いたかった齋藤の想い

1「お前は評価されていない」…移籍を決定づけた強化部との溝
2025年12月、アスルクラロ沼津でプレーする元日本代表FW齋藤学が、盟友・島川俊郎のYouTubeチャンネルに出演し、自身のキャリアにおける最大の転機について赤裸々に語った。
動画内で特に注目を集めたのは、2018年に横浜F・マリノスから川崎フロンターレへ完全移籍した際のエピソードだ。横浜FMの育成組織出身であり、当時はキャプテンとして背番号10を背負っていた齋藤の移籍は、ライバルクラブへの「フリー移籍(0円移籍)」だったこともあり、サポーターから大きな反発を招いた。
齋藤は移籍を決断させた決定的な要因について、これまであまり語られてこなかった衝撃的な事実を明かしている。それは、当時の横浜FMを取り巻く環境の変化と、自身の評価に関するエピソードだ。
当時、横浜FMはシティ・フットボール・グループ(CFG)との提携を深め、チーム作りや評価基準が大きく変革していた時期だった。その中で、キャプテンとしてチームの顔として戦っていたはずの齋藤に対し、代理人を通じて信じがたい言葉が伝えられたという。
「シティ・グループから来た強化部は、お前を(戦力として高く)評価していない」
クラブの象徴としてピッチ内外で重責を担いながらも、組織の中枢からは構想外に近い扱いを受けているという現実は、彼に環境を変える必要性を強く感じさせるものだった。単なる条件面やステップアップの話ではなく、愛するクラブから突きつけられた「低評価」という現実が、彼を移籍へと傾かせる大きな引き金となっていた。
出典:島川俊郎公式YouTubeチャンネル(2025年12月公開動画)

2「プロの決断」の背景にあった怪我への恐怖と成長への渇望
強化部からの評価に加え、齋藤を追い込んでいたのが「選手生命を脅かす大怪我」だった。
2017年9月、齋藤は右膝前十字靭帯損傷という全治8ヶ月の大怪wを負う。当時27歳だった彼は、自身の代名詞である「キレのあるドリブル」が、復帰後に以前と同じレベルで通用するのかという強烈な不安に苛まれていた。実際に海外移籍も模索していたが、負傷の影響で具体的なオファーがまとまらないという現実も突きつけられていた。
「評価されていない」という絶望と、「元の自分に戻れないかもしれない」という恐怖。この二重苦の中で届いたのが、前年にJ1初優勝を果たし、パスサッカーの頂点を極めつつあった川崎フロンターレからのオファーだった。
齋藤は「ドリブルしかできない自分」からの脱却を決意する。怪我で身体能力が変化することを予期し、全く異なるサッカースタイルを持つ王者・川崎に飛び込むことで、一から技術を学び直そうとしたのだ。それは、慣れ親しんだ場所での地位を捨て、裏切り者と呼ばれるリスクを背負ってでも、サッカー選手として生き残るために選んだ「修羅の道」だった。
出典:Football Channel(2023-11-02)/Sportiva(2018-01-14)

3「行かせたくなかった」川崎の配慮と、それでも会いたかった齋藤の想い
移籍直後の心境についても興味深い事実が語られている。川崎加入後、古巣・横浜FMとの対戦に向けて、クラブ側(川崎)が「そこ(日産スタジアム)に行かせたくなかった」と配慮していたという事実だ。
激しいブーイングが予想される中、クラブとしては選手を守りたい心理が働いていた。しかし齋藤本人は、「俺はマリノスサポーターと会いたかった」と吐露している。どれだけ批判されようとも、育ててくれたクラブのサポーターの前でプレーし、姿を見せることこそが、プロとしての誠意であり、彼なりの愛の形だったと振り返る。
結果的に、その「復帰戦」となるはずだった試合は、巡り合わせもあり出場は叶わなかった。齋藤は当時の状況を「なるべくしてそうなった」と語り、運命の皮肉さを噛み締めている。
現在35歳となった齋藤学は、J3のアスルクラロ沼津でプレーを続けている。動画の中で島川俊郎と笑顔で語り合う姿からは、激動のキャリアを歩んできた男だけが持つ、穏やかさと強さが感じられた。彼が選んだ道は険しいものだったが、その経験のすべてが、現在の齋藤学という選手を形作っている。
出典:Jリーグ公式(各年度出場記録)/島川俊郎公式YouTubeチャンネル

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