E-1サッカー選手権2025で、日本代表は韓国代表を1-0で撃破。前回大会に続く連覇を果たした。
E-1サッカー選手権(旧・東アジアカップ)は、東アジアサッカー連盟(EAFF)が主催する地域大会で、原則2年に一度開催される。しかし多くの場合、FIFAの国際Aマッチウィーク外に行われるため、欧州所属選手の招集は難しい。したがって、日本を含む各国代表は国内組中心の構成を余儀なくされる。
加えて、今大会前には韓国メディアの一部で「日本は二軍ではなく三軍」「これは代表ではない」といった表現も見られた。それでも日本は2022年に続き、2025年大会でも韓国を下し、2大会連続優勝を成し遂げている。
振り返れば、1990年代まで“アジア最大のライバル”とされた韓国との力関係は、21世紀に入り確実に様変わりしてきた。そこで本稿では、日韓戦の歴史をたどりながら、両国の現在地について検証していく。
初対戦は1954年──入国拒否から始まった日韓戦の歴史
日韓両国の初対戦は1954年、FIFAワールドカップ・スイス大会のアジア予選。李承晩大統領の反日姿勢から日本代表の韓国入国が拒否され、2試合とも東京開催となった。
・第1戦:1-5(韓国勝利)
・第2戦:2-2(韓国がW杯出場権獲得)
この初戦の「1-5」というスコアは、今もなお日本の対韓戦における最多失点記録として残っている。
圧倒された“定期戦時代”──1970〜80年代の苦い記憶
1972年から1991年までは日韓定期戦が実施された。この期間の通算成績は日本の3勝10敗2引き分け。この数字が示す通り、当時の日本は韓国に対し大きく後れを取っていた。
なお定期戦は1991年以降中断していたが、2013年に再開の議論がなされた。しかし当時の代表監督である洪明甫監督の辞任により再延期されたまま現在に至っている。
日韓W杯以降のライバルとの関係
1996年にW杯共催が決定すると、日韓の関係は大きく変化した。翌1997年の最終予選では、すでに出場を決めていた韓国を相手に日本が2-0で勝利。この試合で韓国サポーター「レッドデビルズ」が掲げた「Let’s Go To France Together(フランスに一緒に行こう)」の横断幕は、今も語り継がれる名場面となっている。
さらに2002年の日韓W杯では、韓国がアジア勢初のベスト4、日本も初のベスト16入りを達成。両国がそろって結果を残したのは、開催国の利点だけでなく、長年の競争関係が互いを高め合った結果とも言える。
こうしてW杯という世界最高峰の舞台で記録を塗り替えた事実は、日韓だけでなくアジアサッカー全体にとっても大きな転機となった。
遂に勝ち越した日本、縮まる日韓の実力差
続いて2000年以降の対韓戦に目を向けてみる。実は日本が6勝6敗7分という結果を残している。数字だけ見れば、全体として互角の戦いを続けている形だ。
一方で、1990年代まで大きく負け越していた事実を踏まえると、日本の成長を示す大きな指標ともいえる。
さらに直近10年(2013年以降)に限定すると、流れはより鮮明だ。日本は韓国との6試合で3勝2敗1分を記録している。
つまり、この期間だけを切り取れば日本の白星が先行している。かつて存在した「苦手意識」は過去のものになりつつあるのである。
日韓は宿命のライバル──これからも続く熱戦に期待
かつて日本が韓国に歯が立たなかった時代。その悔しさをバネに強化を進めた背景には、韓国という存在の影響が確かにあった。
また歴史的・政治的な要素も重なり、両国の対戦はしばしばヒートアップする。他のカードにはない緊張感と重みを持ってきた。それでも互いを認め合い、競い合ってきた日韓の関係は、アジアサッカーを象徴する最大のライバル関係といえる。
そしてこれからもピッチ上で火花を散らす熱戦を通じて、互いを高め合っていくことを期待したい。