ピッチ内外で存在感を放つ男、田中パウロ
今季、前人未到の3年連続昇格という偉業を成し遂げ、来季はJ2の舞台へ挑む栃木シティ。そのチームに、2025年シーズン新たなカリスマが誕生した。
田中パウロ淳一。Jリーグを追ってきたファンにとっては、決して無名ではない存在だ。しかし今季、その名はサッカー界の枠を超え、一気に広がった。
J3・栃木シティでプロサッカー選手としてプレーする一方、TikTokやYouTubeといったSNSを通じて、自らの言葉と行動を発信し続ける。ピッチ内外で注目を集める存在となった理由は、単なる話題性ではない。
なお、「パウロ」という名前は本名ではなく、あだ名だ。元日本代表DF・田中マルクス闘莉王の父親の名前に由来しており、同じ田中姓で見た目やプレースタイルも相まって、周囲から自然とそう呼ばれるようになった。
大阪桐蔭高校時代には、チーム内外ですでに「パウロ」の名が定着していたという。作られたキャラクターではなく、人となりとプレーが先にあり、名前が後からついてきた。
結果、行動、そして選択。それらが一貫して積み重なった末に、今の田中パウロがある。
明るさと技術で違いを生むテクニシャン
明るく、人懐っこいキャラクター。初対面でも距離を感じさせない言葉遣いと、周囲を巻き込むエネルギー。その印象は、ピッチに立った瞬間も変わらない。
サイドを主戦場とし、独特の間合いで仕掛けるドリブル。相手の逆を取るフェイント、意表を突く判断。型にはまらない発想と、観る者の予測を裏切るプレー選択が特徴だ。
いわゆるテクニシャンという言葉が似合う一方で、守備でも手を抜かず、走ることを厭わない。派手さと献身性が同居するプレースタイルは、栃木シティというチームの空気感と自然に溶け込んでいる。
コロナ禍の片手間から始まった発信
田中パウロが動画投稿を始めたのは、ブレイクを狙ったタイミングではなかった。
コロナ禍。試合数が減り、日常が制限される中で、サッカーの片手間として始めた発信だった。
転機となったのが、田中自身が女装しパウちゃんとして、「もし彼女がサッカー上手かったら?」という設定でプレーする動画シリーズだ。
奇抜ではある。しかし、それだけでは終わらない。フェイントの質、間合いの取り方、ボールタッチ。プロとして培ってきた技術があるからこそ、ネタではなく「うまさ」に目が向いた。
このシリーズをきっかけに認知は急拡大。現在、TikTokのフォロワーは50万人を超え、総いいね数は1,800万以上。TikTok Awards Japan of Sports 2025にもノミネートされた。
桐蔭時代の海外体験とプロの壁に直面した日々
| シーズン | クラブ | リーグ | 出場 | 得点 |
|---|---|---|---|---|
| 2012 | 川崎フロンターレ | J1 | 3 | 0 |
| 2014 | ツエーゲン金沢 | J3 | 24 | 2 |
| 2015 | ツエーゲン金沢 | J2 | 25 | 0 |
| 2016 | FC岐阜 | J2 | 20 | 0 |
| 2017 | FC岐阜 | J2 | 36 | 5 |
| 2018 | FC岐阜 | J2 | 32 | 8 |
| 2019 | レノファ山口FC | J2 | 36 | 5 |
| 2020 | レノファ山口FC | J2 | 31 | 1 |
| 2021 | 松本山雅FC | J2 | 23 | 0 |
| 2022 | 松本山雅FC | J3 | 8 | 3 |
| 2023 | 栃木シティ | 関東リーグ1部 | 18 | 3 |
| 2024 | 栃木シティ | JFL | 25 | 6 |
| 2025 | 栃木シティ | J3 | 38 | 11 |
田中パウロ淳一のキャリアは、高校時代から独特だった。大阪桐蔭高校2年時、フランス遠征に参加。現地では名門ボルドーのセレクションを受験している。
契約には至らなかったものの、海外でプレーするという選択肢が、現実的な目標として心に刻まれた瞬間だった。
その後、川崎フロンターレに加入。しかしトップレベルの競争は想像以上に厳しい。出場機会を掴めぬまま、在籍は1年で終わる。
ここで田中は、再び国外に活路を求める。場所を限定せず、自分の力がどこまで通用するのかを確かめるためだった。
ただし、金銭面や言語の問題が壁となり、契約には至らない。サッカーだけでは解決できない現実を、身をもって知ることになる。
帰国後、無所属のままセレクションを受け、ツエーゲン金沢への加入を勝ち取った。ここから、再びキャリアは動き出す。
岐阜で出会った大木武、流浪の中で得た確信
金沢で出場機会を得た後、田中はFC岐阜へ移籍する。ここで、人生を変える監督と出会った。大木武だ。
大木監督の下で、田中は「個を消さずに活かす」サッカーを学んだ。自由には責任が伴う。その前提を叩き込まれた時間だった。
田中は後に語っている。「大木さんに出会っていなければ、今の自分はない」。
同時期、岐阜には古橋亨梧も在籍していた。田中は、古橋の飛躍についても、大木監督の指導が大きかったと語る。
その後、レノファ山口、松本山雅とクラブを渡り歩く。戦術や役割の違いに悩みながらも、自分を活かせる場所を探し続けた。
覚悟の選択と応援される選手という価値
そして辿り着いたのが、栃木シティだった。カテゴリーは地域リーグ。世間的には都落ちとも言われかねない決断だ。
しかし田中の中では明確だった。必要とされ、責任を負える場所で戦う。その覚悟が、栃木という選択につながった。
JFL昇格をかけた地域リーグ決定戦。そこには、「肉離れしても人生を変える」と覚悟を決めた選手が数多くいた。次があるとは限らない世界。その現実を、田中も肌で感じている。
結果は、3年連続昇格。JFL、J3、そしてJ2へ。この快進撃の中心に、常に田中パウロの姿があった。
積み重ねた選択の先にある現在地
田中パウロ淳一は、単なる“話題の選手”ではない。
川崎での挫折、行き場を失いかけた時期、カテゴリーを下げての再挑戦。その一つひとつの選択を、自分の言葉とプレーで肯定してきた選手だ。
栃木シティでの3年連続昇格は、偶然でも勢いでもない。ピッチでは結果を残し、ピッチ外では発信を続け、「応援してもらえる数が選手の価値」という考え方を体現してきた。
そして今季、田中パウロ淳一はJ3優秀選手賞のノミネートメンバーに名を連ねている。J3リーグ各賞は、2025年12月24日開催予定のJリーグアウォーズにて発表・表彰される。
3年連続昇格の中心選手として残してきた数字と影響力を踏まえれば、MVPの議論に名前が挙がる可能性も、決して小さくはない。仮にその舞台で評価を勝ち取ったとしても、それは終着点ではない。
田中パウロ淳一のキャリアは、常に「次」を見据えて動いてきた。サッカー選手としても、発信者としても。その挑戦は、これからも続いていく。


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